2016年8月4日木曜日

英雄無き物語だけでは満足できないという個々の好み

放送大学院の美学論を何度か読んで、「近代主観主義的ではないこと」や「自己主張のうるさくない、自然主義であることの美」について、ひとつの論としては、そういったものの美しさはたしかにあるかな、とは思います。

ただやはり、どうにも腑に落ちないのは、
「英雄無き物語」や「ロマン無き物語」が近代主義的で、かつ主観的(事実、そうなのですが)である場合には、自然などを高い次元でミーメーシス(いい意味での模倣)できていない、していないということにしかならずに、それらの芸術性は下がってしまうか、二流三流だということが結局はこの著者さんからは感じられます。

それはわたしは、全く主観的に、個人的に好きじゃないです。

例えば、あえて極端な例として「ドラゴンボール」の「孫悟空」や、「バットマン」の「バットマン」を例に挙げると、これらの物語は明らかに「英雄譚」であって、そもそも「英雄を取り除く」と全くのつまらない物語になってしまう。

孫悟空はたしかに地上の誰をもミーメーシスしていないのであって、あえて考えれば空想状の神くらいしか思いつかないけども、それは多分作者の意図ではないだろうし。


ここまで書いていて思ったのは、世界中に多数残されている「英雄譚」というのは、文字通りに「英雄の物語」であって、英雄こそが物語の中心であって、全てはその英雄のために話が展開していくわけですよね。

しかもそういった「英雄譚」は歴史的にもとても古くからあるもので、
日本のスサノオノミコト、ヤマトタケルや、中国の劉邦も多少、英雄譚の面影が見え隠れする。ヨーロッパにはアーサー王やジークフリードがいる。

しかし彼らは、ロマンに溢れた、自然を模倣していない、存在であるから、
人にとっては、あるいは世界にとっては取るに足らないつまらない存在なのかというと、そんなはずは無いです。なぜなら、1000年や2000年という月日を越えて継承されている存在が、まるでくだらないということはおよそ考えられないからです。

そうなると、本科目で述べられていることが、どこまで妥当性があるのか、疑問も湧いてきてしまいます。。。



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